日本将棋連盟が「あの口当てでウイルス感染症を予防できる」と考えているとしたら、残念です。
僕は、棋士という人種はもっと頭のいい人だと思っていました。あまりガッカリさせないでください。
マスクを外したことで勝負が決する。こんなことがあってはいけない。
当然、ルール自体が間違っています。
連盟は保守的で、世間の空気を「読んでいる」。その上で、「棋士にもマスクを着けさせといたら無難だろう」ぐらいの感覚でいると思う。
本当は、棋士全員が一丸となって「デタラメを強要するな」と連盟上層部に声をあげないといけない。
去年佐藤九段の一件があった時点で、何らかの動きがあってしかるべきだった。「こんな紙切れで感染症が防げるかよ。人をバカにするのもいい加減にしろ!」棋士全員が連盟に対してストライキをすれば、こんなルールはすぐにでも撤回されたはずだ。
僕は棋士はアスリートだと思っている。対局中、棋士の頭脳はフル回転している。体はほとんど動かさないものの、アスリート並みの酸素を必要とするに違いない。一方、マスクの着用によりSpO2(血中酸素濃度)が低下するという事実がある。棋士として高いパフォーマンスを発揮するうえで、マスクは害毒以外の何ものでもない。そんなマスク強要を唯々諾々と受け入れている棋士ばかりだということが、将棋ファンの僕としては残念です。
さらに、将棋のファンとして言わせてもらうなら、棋士が互いに顔を隠して対局している姿というのは、興ざめです。たとえばテレビ中継されるNHK杯とかで、ファンは盤上の駒の動きだけを見ているのではありません。対局する棋士の表情とか、ここぞという一手を指すときの手の力強さ、あるいは手の震え。そういう所作ににじみ出るドラマを見ています。
しかし棋士同士が互いに顔を隠し合った将棋では、ドラマとしてのおもしろさは皆無です。駒の動きだけ見るのなら、棋譜があれば事足ります。というか、将棋ソフトの進歩した今、人間の棋士が存在する最大の意味は、ファンにドラマを見せることじゃないかな。これだけはまだAIも代替できない。
マスクを外して勝負師の顔を見せて下さい。そして、僕ら将棋ファンをもっとワクワクさせてください。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/06/06/kiji/20200605s000413F2527000c.html
2020年6月の記事。藤井聡太七段(当時)が対局中にマスクを外したことが話題になった。まだ当時はコロナが始まったばかりで、コロナがこれほど長期化するとは誰も予想していなかった。マスクについても、今ほど世間がうるさくなかった時期だ。以下、記事にこのようにある。
「藤井―永瀬拓矢2冠(27)戦も夕刻までは両者マスク姿だったが午後5時18分、藤井は勝負手を放った直後にマスクを取り去った。
対する永瀬はマスクのゴムを片方外して水分を取る行為を何度も繰り返したが、こちらも意を決したようにマスクを取り、以降の対局に集中。」
「感染症が専門の中原英臣氏は「対局で大きな声を出すわけでもない、つばを飛ばすわけでもない、たくさんの観客がいるわけでもない」と指摘。「棋士は相当頭を使いエネルギーを消費している。脳に酸素が必要。マスクを着けていては不利」と理解を示す。
勝又七段も「夏場はマスクなしの対局で構わないのでは。スポーツ選手のように体力を使っているのですから」と力説。日本将棋連盟は「マスク着用は推奨ですので棋士の判断で外してもらって構わない」とした。5番勝負でもマスクをかなぐり捨てての熱戦が期待できそうだ」
コロナ禍当初は連盟もまともだったんですね。
将棋は日本国内で閉じている文化だけど、国際棋戦がある囲碁では、日本の異常性が浮き彫りになる。
仲邑菫棋士は律儀に日本棋院のルールを守って、マスクを着用しているが、韓国の対戦相手は当然マスクなんてしない。酸素不足に陥る日本だけが圧倒的に不利になる。結局仲邑さん、やはりこの対局に負けてしまった。
将棋のマーケットが日本だけなのが残念だ。将棋に国際棋戦があって、マスク着用を続ける日本人棋士が負ける状況が続けば、日本の異常性が注目されるいいきっかけになる。日本の土着ルールがいかに国際的にバカげているか、多くの人が知ればいい。棋士が声をあげられないなら、代わりにファンが声をあげるしかない。
コロナが始まって以後、講演やブログなどでマスクの無意味さや危険性を伝えてきたけれど、僕は一応医者なので、医学的観点からマスクの問題点を指摘していた。
しかし、この本の著者は京大でサルの研究をしている人だ。サルを研究することで、ヒトの何たるかが見えてくる。
たとえば、サル真似という言葉があるけれども、実はサルはあまりサル真似をしない。サル真似、つまり、「相手の行為を忠実に模倣すること」が最も得意なのは、サルよりも人間なんだ。サル真似こそ、ヒトの高度な文化を支えてきた基盤だった。
目の前の人がニコリと笑ったり、悲しんだり、怒ったりする。乳児は生後数か月でそうした喜怒哀楽の表情を区別できるようになるが、いまだこの段階では人の心を「理解」はしていない。さらに、真似をするようになることで初めて、表情の意味を体得していく。
しかしコロナ禍になり、マスクで顔を隠したコミュニケーションが標準になってしまった。現在3歳の子供は、家族以外の他者とのコミュニケーションの際、顔をほとんど見ていない。相手が笑っているのか怒っているのか、分からない。こういう子供たちが将来どのような大人になっていくのか、現在、我々は巨大な実験をしている。
そういうことがこの本に書いてあって、恐ろしかった。それはワクチンとはまた別の恐ろしさだ。
世界はマスクをやめた。日本だけが、この人体実験を継続している。一体この国はどうなっていくのだろう。
僕らは無数の他人の顔を見て、会話して、人間の表情と感情の関係性とか、顔の美しさとか醜さとか、いろんなものを学んでいくわけだけど、そういう学びをせずに成長した子供は、たとえばどのような恋愛をするのか。
マスク越しにキス、という新しい性的嗜好を身に着けたりして、案外この異常な社会にも適応していく能力があるかもしれない。
この記事を見て思い出したのが3年前の記事。
「お互いに向かい合ってする正常位では、コロナ感染の確率が上がってしまう。だから、バックとか騎乗位でやるように」と英国の専門家が提案している。大真面目に。
もういっそ、人類は滅びたほうがええんちゃうかな(笑)
最後に告知です。
現在、最新号の『veggy(ベジー)』(vol. 86)に中村宣司さんと僕のダブル中村対談が載っています。
実は、もうすぐ僕の本が出ます。『奇跡のゲルマニウム』(仮題)という、ゲルマニウムについての僕の経験をまとめた本です。
今回の対談はその本が出版されることを受けてのものです。
ゲルマニウムに関心のある方はぜひ読んでみてください。